fc2ブログ

韓国 6千キロ彼方の南太平洋から遺骨帰還…8万人の強制動員被害者は?

朝鮮動員20231206
6千キロ彼方の南太平洋から遺骨帰還…8万人の強制動員被害者は?
登録:2023-12-05 00:54 修正:2023-12-05 08:01
  81年ぶりに米国防総省の韓国系博士の情報提供で実現 
  朝鮮人未帰還者8万人…日本政府は自国民のみ遺伝子照合
 日帝に軍属として強制動員され、南太平洋のタラワ島で死亡した故チェ・ビョンヨンさんの遺体が、80年ぶりに故郷の霊光(ヨングァン)に戻った。光州(クァンジュ)・全羅南道の市民は、今も帰ってきていない1100人あまりの犠牲者の遺骨の迅速な返還と日本の公式謝罪を求めた。
 (社)日帝強制動員市民の会、全農霊光郡農民会、霊光郡女性農民会は4日、全羅南道霊光郡の霊光文化芸術の殿堂前で記者会見を行い「日本政府は故郷の地に埋葬されずにいる強制動員被害者の遺骨を直ちに返還し、謝罪・賠償せよ」と述べた。
 市民の会は「戦争の野心に燃えた日本は、かつて植民地朝鮮から数多くの若者を戦場へと、各種の工事現場へと強制的に連れて行った」とし、「韓国から6000キロ離れたキリバス共和国タラワには当時、1200人あまりの朝鮮人が強制動員され、島を要塞化する作業に投入され、日本と米国との戦闘で犠牲となった」と説明した。
 また「1918年生まれのチェさんは24歳だった1942年11月、妻と2人の息子を残して南太平洋タラワに連れて行かれ、ちょうど1年後の1943年11月25日、米軍との戦闘過程で死亡したという」とし、「太平洋戦争犠牲者光州遺族会を率いて2021年に102歳で亡くなったイ・クムジュ会長の夫(故キム・ドミンさん)もこの時死去した」と付け加えた。
 市民の会は「チェさんが遅ればせながら遺骨ではあっても家族のもとに帰ってきたのは幸いであり、奇跡のような出来事だが、この過程に至るまで日本政府の誠意や努力はなかった」とし、「今回のケースも、米国防総省捕虜・行方不明者調査局(DPAA)による発掘作業に参加した韓国系博士の情報提供で実現した」と明らかにした。
日帝強制動員市民の会、全農霊光郡農民会などの市民団体が4日、全羅南道霊光郡の霊光文化芸術の殿堂前で記者会見を行い、日本に対して強制動員犠牲者の遺骨返還を求めている=日帝強制動員市民の会提供//ハンギョレ新聞社
 市民の会は、日帝強占期に沖縄、南太平洋、東南アジアなどに連れて行かれ、戻ってこられずに亡くなった強制動員被害者は、軍人・軍属2万2千人、労務者1万5千人などを含め、少なくとも8万人あまりと推定している。これまで日本やサハリンなどから返還された遺骨は一部あったが、太平洋地域から朝鮮人の遺骨が戻ってきたのは今回が初めて。
 市民の会は「日本政府は2016年に『戦没者遺骨収集推進法』を制定し、第2次世界大戦の戦没者の遺骨を発掘したら遺伝子の照合を経て遺族に引き渡しているが、日本人のみを対象としている」とし、「戦犯国日本は強制動員被害者の遺骨を発掘し、早急に家族の元に返還するとともに、謝罪と賠償を行うべきだ」と述べた。
 タラワでの戦闘は米軍が太平洋戦争中におこなった最初の大規模上陸戦で、3万5000人あまりの米軍と4800人あまりの日本軍(2200人の軍属含む)が戦い、死者は米軍が1700人あまり、日本軍が4700人あまり発生した。DPAAのウェブサイトによると、日本側の死者のうち韓国人犠牲者は1100人あまり。
 この日、行政安全部は霊光でチェさんの追悼式と帰郷式をおこなった。チェさんの遺骨は一族の墓所に埋葬された。
キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/1118992.html
韓国語原文入力:2023-12-04 16:14

[コラム]強制動員とは何だったのか
登録:2019-10-10 21:26 修正:2019-10-11 08:31
 「植民地朝鮮で徴用が実施された期間はきわめて短かった」
 最近、韓国と日本の一部で、強制動員は歴史歪曲と主張する人々がいる。最近話題になった『反日種族主義』という本にも、そうした内容が一部載っている。彼らが主要な根拠に上げる内容は、日本が日本本土と植民地朝鮮で法的な意味の「徴用」を実施した時期は異なっているという点だ。日本本土では徴用の根拠になった「国家総動員法」を根拠とした国民徴用令が1939年7月から実施されたが、植民地朝鮮では1944年9月から実施されたという点を上げる。朝鮮では、日本本土とは違い1939年から1944年9月までは「募集」と「官斡旋」という名前で朝鮮の労働者を動員し、募集と官斡旋は法的な意味の強制性はなかったと主張する。
 こうした主張を聞けば、あたかも朝鮮人の大部分は自発的に日本に行ったように見える。しかし、植民地朝鮮の現実は形式的法とは距離が遠かった。募集と銘打った場合にも、日本の企業が植民地朝鮮の役人たちを懐柔し、朝鮮人を脅迫したり拉致して連れていく場合が多かった。募集だけでは人員を満たせなくなり、1942年からは朝鮮総督府が直接介入して朝鮮人を動員する、いわゆる官斡旋が並行された。
 募集と官斡旋の実態を証言する史料は、現在もたくさん残っている。太平洋戦争中に長野県の松代大本営地下バンカー建設工事に動員された慶尚南道昌寧(チャンニョン)出身のキム・チャンギ氏が、1992年に証言した内容が『岩陰の語り-松代大本営工事の労働証言』という本に載っている。「2月頃だったか。面(日本の村にあたる行政組織)の職員が来て、何の説明もなく家から連れて行かれた。25歳の時だった。服を着替える暇もなかった…貨物列車に乗ったが、人々をいっぱいに乗せて外から錠が掛けられた」と証言した。2年ほど仕事をして解放になり帰ってきたという証言を残したが、これを土台に推定すれば、1943年末に動員されたと見られ、動員方式は募集と官斡旋のどちらかだったと見られる。形式的にどんな方式を適用したのかは分からないが、キム氏にとっての現実は、単に「連れて行かれたこと」だった。
 日本の市民団体「朝鮮人強制連行真相調査団」の資料には、全羅南道高興郡(コフングン)から長野県の御岳発電所工事現場に動員されたヤン・ビョンド氏の証言が載っている。「1943年7月中旬だった。日本人の巡査が来て、私に用事があるから来いと言った。ついて行くと、留置場に放り込まれた。トラックで麗水(ヨス)港に連れて行かれ、日本の下関に到着」と話した。この例も同じく法的な意味の徴用ではなかったが、実状は強制動員だったわけだ。
 日本に行けば稼げるという言葉にだまされて行った朝鮮人もいた。植民地朝鮮という矛盾が生んだ貧困から抜け出すために日本に行った朝鮮人もいただろう。しかし、そのような場合にも作業場に配置された後には、企業が公権力と組んで逃走を防ぐために監視して、賃金は貯蓄を名目に一部だけを支給するなど強制労働に苦しめられたケースが大半だった。
 「日本人と朝鮮人の労働者は仲良くした」「差別はなかった」という主張が、日本でも時々出てくる。もちろん個別的に朝鮮人労働者の一部と日本人が仲良くした場合はあった。飢えた朝鮮人労働者に日本の農民がミカンを渡したという証言もある。日本の政府と企業が朝鮮人労働者に一定程度の外出を許容する場合もあった。戦争中でも人々の暮らしは続く。動員された人でも常に泣いてばかりいるわけではない。当時も人生は複雑で多様だった。しかし、だからと言って強制労働という本質を消すことはできないではないか。
チョ・ギウォン東京特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/912753.html
韓国語原文入力:2019-10-10 19:25


日韓で強制動員の定義が食い違うので、こういった歴史問題は解決しません。

日韓友好など夢のまた夢だと認識すべきです。

コメント

非公開コメント

プロフィール

후쿠자와-福泽-福沢

日本や隣国の情勢を日記に書きとめています。